詩集『斷片』を評す 萩原朔太郎
<詩集『断片』を評す> 萩原朔太郎
明白に言って、僕は今の詩壇に飽き飽きして居る。どこにも真の創造がなく。どこにも真の情熱がない。若い元気のある連中ですらが、時代の無風帯に巻きこまれて仮眠して居る。……
こうしたナンセンスの時代に於て、最近僕は一つのがっちりした、稀れに内容の充実した好詩集を見た。
即ち萩原恭次郎君の新書『断片』である。最近の詩壇を通じて、僕はこれほどガッシリした、精神のある、本当の詩の書いてある詩集を見たことがない。
この詩集に書いてるものは、シイクボーイの気障な流行意匠でもなく、蒸し返した自由詩のぬらぬらした咏嘆でもない。これは一つの沈痛した__その精神の中へ鉄をハガネをねじ込まれた__巨重な人間意志の歪力である。
表現を通じて、言葉がその「新しさの仕掛け」を呼んでいる。言語はぶしつけに、ねじまげられて、乱暴に書きなぐられている。
しかも力強く、きびきびとして、弾力と緊張とに充たされて居る。
すくなくとも詩のスタイルとフォルムの上で、『断片』は一つの新しい創造を啓発した。
本来言語に緊張を欠き、ぬらぬらとしてだらしのない現代日本の口語を以て殆どやや過去の文章語に近いほどの弾力と緊張とを示したことで、最初に先ずこの詩集の価値をあげ、恭次郎君の芸術的功績を賞頌せねばならないのである。
かつてダダイズムの詩集『死刑宣告』を書いて以来、恭次郎君は久しく郷里の田舎に隠退して居た、あのアナキズムの没落や、それの悲運に伴ふ同志の四散やが、おそらくは君の心境に影深い衝動(しょっく)をあたへた。
そして一人で田舎にかくれ、静かな孤独生活を続けて居た。かつて昔、外部に向ってヒステリカルに爆発していたところの、あの一種の虚無的テロストの情熱は、田舎の孤独な生活からして、次第に君の内部に向ひ、魂の深奥な秘密に対して、静かな冥想の目を向けるようになって来た。そして今や、君の本当の「詩」を意識して来た。それはヒステカルの興奮でなく、より内奥な意志をもつところの、静かな、美しい、真の芸術的な憤怒であり、そしてその怒を書くところの抒情詩だった。
詩集『断片』は、決して所謂プロレタリア詩の類種ではない。
それはもっと芸術的で、高い美の精神をもったところの別の種類の詩集である。(といふ意味は、それが「政治のための手段」でなく、真の「芸術のための芸術」であり、美を目的とする創造であることを指しているのである。)
僕は所謂アナアキストではないけれども、詩集『断片』に現はれてる著者の思想と心境には、全部残りなく同感できる。
なぜなら此所には、世俗の所謂プロレタリア詩に類型するところの、あの常識的な社会意識や争闘意識やの「概念」がなく、真の人間性に普遍しているところの、真の内奥的な意志や感情やがあるからである。そして勿論、真に芸術と言はれる者は、決して「概念」__その中にイデオロギイも含まれている__によって書かれはしない。
………然るに『断片』に於ける萩原君は、むしろ一個の悲壮なる英雄として、気品の高い崇高な風貌を以て示されて居る。それは運命の逆圧された悲劇の中で、あらゆる苦悩に反撥しつつ、苦悩に向って戦を挑むところの、人間意志の最も悲壮な英雄詩を本質して居る。(その限りに於て、僕がかつてニイチェから受けた強い刺激を、同じやうに萩原君の詩から受けた。)
恭次郎君の詩人的特性には、或る種の妙にひんまがった冷酷で意地の悪い、歪んだ力のユニイクな反撥がある。
この一種の歪力が昔から一貫して、君の詩の特色を風貌づけ、且つその点で特殊な魅力を持ったのであるが、今度の『断片』に於てもまた、それが詩的情操の重心となり、バネのよく利いてるネジのやうに、詩の情感性をぎりぎりとよく引きしめて居る。
この特殊な意地の悪さ、惨虐性、ひん曲った意志の歪み、それが恭次郎君の場合に於ては、すべての芸術的機関部になって居るのである。恭次郎君の場合に於ては、すべての英雄詩的な者も、皆この一つの機関部から動力されて居る。…………
萩原恭次郎君と僕とは、偶然にも同じ上州の地に生れ、しかもまた同じ前橋の町に生れた。多くの未知の人々は、しばしば誤って僕等二人を肉親の兄弟だと思っている。
それほどにも偶然の故郷を一にした我々二人は、芸術上に於ても、多少また何等か共通の点がないでもない。
前の『死刑宣告』の詩的本質から、かつて僕はその一部の共通を感じて居たが、今度の『断片』を読んでもまた、同じく或る点で共通を発見し、芸術的兄弟としての親愛を一層深めた所以である。最後に再度繰返して、僕は詩集『断片』の価値を裏書きしておく。
今の若い詩壇と詩人が、もしこの詩集の価値を認めず、理解することが出来なかったら、この上もはや、僕は何物をも彼等に求めず、一切を絶望して引退するのみである。
『詩と人生』(1932年3月号)
明白に言って、僕は今の詩壇に飽き飽きして居る。どこにも真の創造がなく。どこにも真の情熱がない。若い元気のある連中ですらが、時代の無風帯に巻きこまれて仮眠して居る。……
こうしたナンセンスの時代に於て、最近僕は一つのがっちりした、稀れに内容の充実した好詩集を見た。
即ち萩原恭次郎君の新書『断片』である。最近の詩壇を通じて、僕はこれほどガッシリした、精神のある、本当の詩の書いてある詩集を見たことがない。
この詩集に書いてるものは、シイクボーイの気障な流行意匠でもなく、蒸し返した自由詩のぬらぬらした咏嘆でもない。これは一つの沈痛した__その精神の中へ鉄をハガネをねじ込まれた__巨重な人間意志の歪力である。
表現を通じて、言葉がその「新しさの仕掛け」を呼んでいる。言語はぶしつけに、ねじまげられて、乱暴に書きなぐられている。
しかも力強く、きびきびとして、弾力と緊張とに充たされて居る。
すくなくとも詩のスタイルとフォルムの上で、『断片』は一つの新しい創造を啓発した。
本来言語に緊張を欠き、ぬらぬらとしてだらしのない現代日本の口語を以て殆どやや過去の文章語に近いほどの弾力と緊張とを示したことで、最初に先ずこの詩集の価値をあげ、恭次郎君の芸術的功績を賞頌せねばならないのである。
かつてダダイズムの詩集『死刑宣告』を書いて以来、恭次郎君は久しく郷里の田舎に隠退して居た、あのアナキズムの没落や、それの悲運に伴ふ同志の四散やが、おそらくは君の心境に影深い衝動(しょっく)をあたへた。
そして一人で田舎にかくれ、静かな孤独生活を続けて居た。かつて昔、外部に向ってヒステリカルに爆発していたところの、あの一種の虚無的テロストの情熱は、田舎の孤独な生活からして、次第に君の内部に向ひ、魂の深奥な秘密に対して、静かな冥想の目を向けるようになって来た。そして今や、君の本当の「詩」を意識して来た。それはヒステカルの興奮でなく、より内奥な意志をもつところの、静かな、美しい、真の芸術的な憤怒であり、そしてその怒を書くところの抒情詩だった。
詩集『断片』は、決して所謂プロレタリア詩の類種ではない。
それはもっと芸術的で、高い美の精神をもったところの別の種類の詩集である。(といふ意味は、それが「政治のための手段」でなく、真の「芸術のための芸術」であり、美を目的とする創造であることを指しているのである。)
僕は所謂アナアキストではないけれども、詩集『断片』に現はれてる著者の思想と心境には、全部残りなく同感できる。
なぜなら此所には、世俗の所謂プロレタリア詩に類型するところの、あの常識的な社会意識や争闘意識やの「概念」がなく、真の人間性に普遍しているところの、真の内奥的な意志や感情やがあるからである。そして勿論、真に芸術と言はれる者は、決して「概念」__その中にイデオロギイも含まれている__によって書かれはしない。
………然るに『断片』に於ける萩原君は、むしろ一個の悲壮なる英雄として、気品の高い崇高な風貌を以て示されて居る。それは運命の逆圧された悲劇の中で、あらゆる苦悩に反撥しつつ、苦悩に向って戦を挑むところの、人間意志の最も悲壮な英雄詩を本質して居る。(その限りに於て、僕がかつてニイチェから受けた強い刺激を、同じやうに萩原君の詩から受けた。)
恭次郎君の詩人的特性には、或る種の妙にひんまがった冷酷で意地の悪い、歪んだ力のユニイクな反撥がある。
この一種の歪力が昔から一貫して、君の詩の特色を風貌づけ、且つその点で特殊な魅力を持ったのであるが、今度の『断片』に於てもまた、それが詩的情操の重心となり、バネのよく利いてるネジのやうに、詩の情感性をぎりぎりとよく引きしめて居る。
この特殊な意地の悪さ、惨虐性、ひん曲った意志の歪み、それが恭次郎君の場合に於ては、すべての芸術的機関部になって居るのである。恭次郎君の場合に於ては、すべての英雄詩的な者も、皆この一つの機関部から動力されて居る。…………
萩原恭次郎君と僕とは、偶然にも同じ上州の地に生れ、しかもまた同じ前橋の町に生れた。多くの未知の人々は、しばしば誤って僕等二人を肉親の兄弟だと思っている。
それほどにも偶然の故郷を一にした我々二人は、芸術上に於ても、多少また何等か共通の点がないでもない。
前の『死刑宣告』の詩的本質から、かつて僕はその一部の共通を感じて居たが、今度の『断片』を読んでもまた、同じく或る点で共通を発見し、芸術的兄弟としての親愛を一層深めた所以である。最後に再度繰返して、僕は詩集『断片』の価値を裏書きしておく。
今の若い詩壇と詩人が、もしこの詩集の価値を認めず、理解することが出来なかったら、この上もはや、僕は何物をも彼等に求めず、一切を絶望して引退するのみである。
『詩と人生』(1932年3月号)
by dan-pen2
| 2001-05-09 08:41
『斷片』をめぐる物語
by dan-pen2
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